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座右の寓話 「ロバと親子」

町にある市場でロバを売るため、親子とロバが田舎道を歩いていた。
すると、道ばたで井戸水を汲んでいた女の子たちがそれを見て言った。
「なんて馬鹿な人たちでしょう。どっちか一人がロバに乗ればいいのにさあ。
二人ともほこりをかぶってとぼとぼ歩いているのに、ロバはあんなに気楽に歩いているわ」。
親父さんはその通りだと思い、息子をロバの背中に乗せた。

しばらく行くと、老人たちがたき火をしているところに来た。
老人の一人がこう言った。
「今時の若い者は年寄りを大切にしない。ごらんよ、年をとった親父さんが
疲れた様子で歩いているのに、あの子はロバに乗って平気な様子でじゃないか」。
親父さんはこれを聞いて「それもそうだな」と思った。
そして、息子を下して、自分がロバに乗った。

しばらく行くと、子どもを抱いた三人の女たちに会った。
一人の女がこう言った。
「まったく恥ずかしいことだよ。子どもがあんなに疲れた様子なのに、
どうして歩かせておけるんだよ。自分は王様みたいにロバに乗ってさ」。
そこで親父さんは、息子を鞍の上に引き上げて自分の前に乗せた。

しばらく行くと、数人の若者たちに出くわした。
一人の若者がこう言った。
「君たちはどうかしてるんじゃないか。
その小さなロバに二人が乗るなんていうのは無慈悲だよ。動物虐待と言われても仕方がない」。
その通りだと思った二人は、ロバから下りた。
そして、親父さんは言った。
「こうなったら、二人でロバをかついで行くしかない」

二人はロバの後ろ足と前足をそれぞれ綱で縛って、道ばたにあった丈夫そうな棒をその間に通した。
子どもが片方の棒を、親父さんが棒のもう片方を持って、えんやえんやとかついで歩いて行った。
町の人たちはこの様子を見て、てをたたいて笑った。

【嫌われることは自由の証】

この寓話の教訓は「全ての人に好かれることはできない」ということである。
どうしてそういうことが言えるのか。
世の中にはいろんな人がいる。
その人はその人の立場でものを言う。

この寓話では、
女の子の立場、老人の立場、三人の女の立場、若者の立場など、
それぞれがそれぞれの立場で親子に自分の思いをぶつけている。
もちろん、それぞれの助言に一理あることは認めよう。
しかし、一理あるにすぎないのである。

もう少し、別の角度から考えてみる。
「全ての人に好かれることはできない」という教訓は、
「誰かに嫌われることを恐れてはいけない」という教訓に変換できる。
内股膏薬という四文字熟語を思い出す。
内股に貼った膏薬が右側についたり左側についたりすることから、
しっかりした意見や主張がなくて都合次第で立場を変えること、
または、そのような人物やあてにできない人物のことを言う。
この親子はまさにそういう状態に陥っている。
組織の中で仕事をしていると、こういう内股膏薬状態に陥ってしまうことも少なくない。

大げさにいえば、この親子は「人間としての自由」を放棄している。
自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きるための代償であり、 自分が自由に生きていることの証拠である。
他者に嫌われても構わないと思うこと、
他者の評価を気にしないことが、自由に生きるための出発点になる。

「全ての人に好かれることはできない」という格言から連想するのは、
「全てを手に入れることはできない」という格言である。

「結婚はせず、こどももいない。振り返れば捨ててきたことも多く、
好きなことを追い続けた自分を『卑怯だったかな』と思う時もありますが、
『全てを手に入れることはできない』と悟っています」 by  戸田奈津子

こんなことを言う人もいる。
選ぶとは、何かを選んで、何かを捨てることだ。
両方を選ぼうとして、どちらも失ってしまうことがしばしばある。
なるほど、それはそれで一つの考え方である。
しかし、
どれか一つを選ぶなんてできない、全て欲しいと思うのが人情である。
たとえば、
仕事と家庭と趣味をどう両立させていくかを考える時、
どれか一つをとれと言われても困るし、できれば全てを欲しいと思うのではないか。

そういうときにはどういう実用的な助言が可能だろうか。

一つは、
全てを手に入れるのは同時でなくてもいいということ。
「全てを手に入れる」という目標を「長い時間軸で追う」ということだ。

もう一つは、
完全なものを手に入れることを望まないことだ。
少しだけ雑になること。
良い意味で適当になること、
そしてほどほどのところで満足することだ。
この二つの法則を守れば、全てを手に入れることも不可能ではない。


人間は他人の目を気にしてばかりで、
結局は、他人の人生の中で生きてしまうことになる。

寓話の最後、
完全なものを手に入れようと思わず、
少し雑に、いい意味適当に、ほどほどのところで満足する。
これに限る!!



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座右の寓話 「キツネとクマ」

一人の男が持ちの中を歩いていると、ケガをしているキツネを見つけた。
狩人たちに追いかけられ、必死に逃げているうちに、足の骨でも折ったのだろう。
木の下に倒れているキツネは飢えて死にかけていた。

するとそこにハイイログマが現れた。
クマは殺した動物を口にくわえて、引きずっていた。
クマはキツネには目もくれない様子だった。
餌食になった動物を食べて、その場を去るとき、動物の死骸の一部をキツネのそばに残していった。

翌日、男はまた森の中を歩いた。
この日もクマはキツネのそばに餌を残していった。
そして、三日目も同じことが起きた。
男はこれまで見たことに思いをめぐらせた。
「もし神が傷ついた一匹のキツネのことを心にかけておられるら、私のこともお忘れにならないだろう。
このキツネのように神の愛を信頼し続けよう」
男は森の片隅にひざまついて祈った。
「父なる神よ、何が起ころうと、あなたを信頼し続けることを、この傷ついたキツネが教えてくれました。
わたしも、あなたに心からおすがりします」
男はそこに身を横たえ、神が何かしてくださるのを待つことにした。

一日が経過。
何も起こらなかった。
男はお腹がすいてやりきれなくなった。

二日目が経過。
何も起こらなかった。

そして三日目が経過。
やはり何も起こらなかった。
男は腹をたてた。
「神よ、あなたはあのキツネを私より愛していらっしゃるのですか?私があなたを信頼しているのに、
あなたは私を省みてくださらない。なぜ、私に食べ物をくださらないんですか?」

男は森を出て、町に戻った。
通りを歩いていると、お腹をすかしている貧しい子どもに会った。
これを見た男は神をののしった。
「神よ、ひどいではありませんか?なぜ、このあわれな子どもに何もなさらないのですか?」
「私は何かをしたのだよ」。
神様の声が聞こえてきた。
「私は、あなたを人間として創造した。だが、私はあなたに失望している。
あなたはあのクマを見習うこともできたのに、あのキツネのようにあり続けようとしている」

【あなたは他者の為に何ができるのか】

森の中で男が見たのは、ケガをしたキツネがクマに食べ物を貰う光景、
逆にいえば、
クマがケガをしたキツネに食べ物を与える光景だった。
これを見た男は、自分がケガをしているわけでもないのに、クマではなくキツネになろうとした。
お腹を空かしている男は、神様が何かをして下さるのを待った。
しかし、何も起こらなかった。

腹を立てた男は町に戻った。そこで見たのは、お腹を空かせている子どもたちだった。
男は、その子らに手を差し伸べようとはしなかった。
神様が子どもたちに何かをしてくれるのを待つだけだった。
しかし、神様は手を出さなかった。
こういう男の態度に神様は失望した。
お前はクマを見習うこともできた。
しかし、そうしなかった。
与えることができる立場にいるのに、与える側の人ではなく、与えられる側の人であろうとした。

この話の教訓は「与えれられる人になろうとするな。与える人になろうとせよ」である。
この話を聞くと、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが、
国の為に何をできるかを問うて欲しい」という名言を思い出す。
これは、
一九六一年にジョン・F・ケネディが第三五代アメリカ合衆国大統領に就任した際の演説の一部である。

足りている人が足りていない人に何かを与える場合、二つの流れが存在する。
一つは住民の納めた税金が国や地方自治体によって再配分される流れ。
もう一つは個人による寄付の流れ。
前者は正義に関することである。
正義とは社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持することであり、これは政治と関わりが深い。
一方、後者は心の広さという道徳に関係する。

「正義と心の広さとは、いずれも私たちと他人との関係に関わる。
だが、心の広さの方がいっそう主観的で、個人的で、感情的で、自発的であり、
それに対して正義にはいっそう客観的で、普遍的で、知的で、思慮深いところがある」

日本には寄付文化が根付いていない。
言うなれば、圧倒的な寄付後進国である。
「AERA」に掲載された記事「税金で十分貢献 生活に余裕なし」によれば、
二本の二人以上世帯の年間平均寄付金額は平均三四〇三円にすぎない。
「CAF WORLD GIVING INDEX」の世界寄付ランキングでは一四五ヶ国中一〇二位で、
先進国の中では圧倒的な最下位である。
寄付者の数も東日本大震災のあった二〇一一年の七〇二六人をピークに右肩下がりだ。
何が私たちを寄付から遠ざけているのか。

「日本は”公共”は国がやるものだという意識が根強く、納税で社会への責任を果たしている
と思っている人がほとんどです」とのことだ。
元来、日本人は身内やお客様にはたいへん親切である。
しかし、その一方で他人には無関心であり、
ことに社会的弱者(ベビーカーを押すお母さん、妊婦、障がい者、高齢者)には冷たい。

外国の町を歩いている時、
いくら無愛想で恐ろしい顔をした若者でも、社会的弱者を見ると先を争って手を差し伸べる姿を目にする。
日本を訪れる外国人に日本人が親切なのはお客様だからだろう。

まとめると、
「心の広さ対極にあるのは利己主義」である。
利己主義は根強く、心の広さはか弱い。
だから、私たちは基本的に利己主義者として生活している。
しかし、だからといって、利己主義者だけの存在ではない。
いつも心の広さを発揮することは無理にせよ、時に心の広さを示すことはできる。
広い心とは気前の良さに通じる徳である。
気前のよさとは、けちと浪費の中間に位置する。
広い心で気前のよい行動をするとき、
人間が本性として持っている利己主義から私たちはしばし解放される。

与えられる側から ⇨ ⇨ ⇨ 与える側に
利己主義から ⇨ ⇨ ⇨ 利他へ
けちと浪費から ⇨ ⇨ ⇨ 気前のよさへ

経済の側面からも、
寄付文化が根付いているアメリカ合衆国と、
寄付文化の圧倒的後進国である日本国では発展(経済成長)に大きな差がある。

アメリカは、いわゆる成功者と言われる多くの人が寄付をし、次の世代を育てている。
(ビルゲイツもザッカーバーグも財団創設、次の世代を育成している)

日本は、個人の富裕層も、企業も内部留保しか考えていない?のでは。
(稲盛さんのように、そうでない人もいるが・・・)


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座右の寓話「靴のセールスマン」

香港で靴の製造会社を経営する人物がいた。
ある日、彼は、南の太平洋の孤島に靴の市場が存在するかどうかをお知りたくて、
一人のセールスマンを派遣した。

その男は、現地の様子をみてすぐに電報を打った。
「島の人間は靴を履いていません。よってここには市場は存在しません」
納得のいかない経営者は、別のセールスマンを派遣した。
その男からの電報は次のような内容だった。
「島の人間は靴を履いていません。よって、ものすごい市場が存在します」

これにも納得いかなかった経営者は、さらに別のセールスマンを派遣した。
この男は、前に派遣された二人のセールスマンと違って、マーケティングの専門家でもあった。
彼は、部族長や現地人にインタビューした上で、こう打電してきた。

「島の人は靴を履いていません。そのため、彼らの足は傷つき、あざもできています。
私は部長族に、靴を履くようになれば島民は足の悩みから解放されると説明しました。
部族長は非常に乗り気です。彼の見積もりでは、一足十㌦なら島民の70%が購入するとのことです。
おそらく初年度だけで五千足は売れるでしょう。
島までの輸送経路と島内の流通経路を確立するのに要するコストを差し引いても、
大きな利益が生まれる可能性のある事業だと思われます。早急に話を進めましょう」

【需要は探すのではなく、つくり出すもの】

一つの物事に対するとらえ方はひとそれぞれである。

一人目のセールスマンは「島の人間は靴を履いていない」
という事実から、
「市場は存在しない」と判断した。

二人目のセールスマンは「島の人間は靴を履いていない」
という事実から、
「ものすごい市場が存在する」と判断した。
同じ事実を見たのに、異なった判断が生まれてくるのは興味深い。
二人の違いは、物事をネガティブにとらえるか、ポジティブにとらえるかの違いだと考えてもいい。
半分だけ水が入ったコップをみて、
「半分しか水が入っていない」
ととらえるか、
「半分も水が入っている」ととらえるかと同じである。

さて、二人目のセールスマンと三人目のセールスマンはともに
「ものすごい市場があるかもしれない」と感じた点では同じである。
しかし、二人目のセールスマンはそこで終わった。
それに対して、三人目のセールスマンはその可能性を確かめようと点で優れている。

三人目のセールスマンの仕事ぶりで連想されるのは、
顕在需要と潜在需要とい二つの重要である。

顕在需要とは、
はっきりと現れて存在している重要であり、商品の購入に直接結び付く需要である。

潜在需要とは、
商品の価格が高すぎたり、情報が不足していたりするため、
現実にはまだ顕在化していない需要である。

三人目のセールスマンは、
顕在需要はまだないものの潜在需要はあるのではないかという可能性を感じ、
その可能性を調査によって明らかにし、
潜在需要を顕在需要へと変化させていく道筋をつくったのだ。

新しい販路を開拓しようとするとき、まず大事なのはその地域や現場に 需要があるかどうかを確認することだ。顕在需要がなくても、潜在需要があればいい。
顕在需要があれば、すぐに商売をすることはできる。
しかし、
多くの場合はすでにそこで商売をしている人がいるので、付加価値は小さい。
一方、
潜在需要を掘り起こすことは手間とお金がかかるが、
うまくいけば、
付加価値の大きいビジネスになっていく。

DMU(Decision Making Unit:購買意思決定者)に会ったことが、
三人目のセールスマンが成功した要因!

『目標は方向性ではなく到達地点で語れ』

「頑張る」「努力する」などはあくまで姿勢であって、目標ではない。
一人目のセールスマンは論外、
二人目のセールスマンはDMUに会うまでの思考、マーケティング力がなかったことが敗因!

とはいえ、
自分にあてはめたらせいぜい二人目のセールスマン止まりだろう。


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座右の寓話 「閻魔王の七人の使者」

ここは地獄の閻魔王庁である。
閻魔王は「浄玻璃の鏡」をみながら男にこう言った。
「なんだ、お前は。悪いことばかりして、ちっとも善いことをしていないではないか。
これじゃ、地獄行きだな」
「すみません。急だったもので、善業を積む暇がなかったんです」
男は弁解した。
「急に死んだと言うが、お前は何歳じゃ?」
「六十七歳です」
「六十七歳か。六十七歳なら、わしが送った七人の使者を見たであろう」
「七人の使者と言いますと・・・・・そんな方はみかけませんでした」

閻魔王はこう言った。
「一つは目だ。
かつてはどんなものでもはっきりと見えた。しかし、最近ではどうだ・・・よく見えまい。
二つ目は耳だ。
昔はささやき声でも聞き取れたというのに、この頃は角笛さえも聞こえまい。
三つ目は歯だ。
若いころは石さえかみ砕けるほど頑丈だったのに、今はほとんど残っていないではないか。
四つ目は髪だ。
子どもの頃はカラスのようにまっ黒だった髪の毛も、すっかり抜けて禿げあがり、
わずかに残る髪も白く変わってしまっただろうが。
五つ目は背筋だ。
若い頃はナツメヤシの木のようにピンと張っていた背筋も、今では弓のように曲がってしまったではないか。
六つ目は足だ。
かつては二本の足でしっかり踏ん張っていたが、今や足元もおぼつかない。
杖がなくては、ふらついてしまって歩けないだろうが。
七つ目は食欲だ。
昔は口にするものすべてがうまかったのに、この頃は、どんなものも口に合うまい。
さあ、七人の使者を説明したぞ。何か言うことが有るかね?みんな、お前とともにいるではないか」
男は何も言えなかった。
「使者の警告を無視してお前は何の準備もしてこなかった。今更後悔してももう遅い。お前は地獄行きだ」
注)【浄玻璃の鏡】閻魔王がいる庁舎にあり、死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡。

『今日が人生最後の日なら、あなたはどう生きる?』

平均余命という指数がある。
ある年齢の者が平均するとあと何年生きられるかを示した数である。
例えば、ここに五十五歳の男性がいるとする。
「平成二七年簡易生命表」によれば、
五五歳の男性の平均余命はおよそ二八年(女性はおよそ三三年)この数字はどういうことを意味するのか。

誰もがあと二八年生きられるということではない。
あくまでも平均値であるから、五六歳で亡くなる人もいれば、一〇〇歳まで生きる人もいる。
この寓話の登場人物は六七歳の男性である。
当然、自分の順番はまだ先だろうと高をくくっていた。
ところが、気付いたら、地獄の閻魔王庁にいたのである。

この寓話では「あの世」には極楽と地獄があって、生前に善業を積んだ人は極楽行けるが、
悪行をしてきた人は地獄に行くという設定になっている。
どちらにいくのかを判断するのは閻魔王である。
悪行しかしてこなかった人はいうまでもなく、これまで何ら善業らしきことをしてこなかった人であっても、
年齢を重ねて死期が近づいてきたらなるべく早いうちから善業を積みましょう・・・・・
そういう教えを諭す話である。

人間は必ず死ぬ。
いつ死ぬかは分からなくても、必ずいつか死ぬ。
大人であればみんなそういうことは知っている。
その一方で、
自分だけは当分の間、死なないだろう・・・そう思いながらみんな生きている。
こういう感覚は、若者だけに限らない。
「当分、自分は死なないだろう」と高をくくって生きているよりも「今日が人生最後の日かもしれない」 と思って生きた方が賢明である。その方が、今日一日の質が高まるからだ。

家族と食事をする、商店街を歩く、寿司を食べる、酒を飲む、コーヒーを飲む、ケーキを食べる、
テニスをする、プールで泳ぐ、風呂に入る、桜を見る、デートをする、海を見る、電車に乗る・・・・・
どれもこれも「これで最後か」と思えば感慨もひとしおである。

自分の死を意識するとはどういうことか。
四六時中「すべての人間は死ぬ。私は人間である。ゆえに私は死ぬ」という三段論法を反芻して、
くよくよ生きることではない。
「今日が最後の日かもしれない」という言葉を心の底にしまいつつも、時々はそれを取り出しながら
快活に生きていくことではないか。

最後に、
仏教の開祖である釈迦はきっとこの話に異議を唱えるであろう。
というのも、釈迦にとってはこの人生こそが苦であり(一切皆苦)、地獄とはこの世に何度も何度も
さまざまな境遇で生まれてくる「輪廻」そのものだからだ。
つまり、
地獄は「この世」そのものであり、「輪廻」から脱出していける極楽だけが「あの世」というわけだ。

「極楽」
「地獄」
「あの世」
いずれは必ずそこに行くことになる。
私も、平均余命から逆算すると残された時間はあと二五年。
残された二十五年を、小さな善を積重ね毎日一生懸命に生きるしかない。

人間は、
生まれてくるときには苦しくて泣きながら生まれてくる。
不安で不安で大きな声で泣くしかなく・・・。
でも、それを見ているまわりの人はみんな笑顔で見ている。
「かわいい」とか「げんきだね」とかいいながら・・・

逆に死ぬ時は、
ベットの上で息を引きとる瞬間、泣いてくれてるまわりの人を見て
「自分はこの人たちにとって少しでも役に立つこと出来たんだな」って、
笑顔で逝けたらいいな、そのように思う。

この年齢になると、ふとこんなことも考えてしまう。
寓話を読んで感じたことでした。

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座右の寓話「子どもをしかる父親」

「おい、そんなところでゴロゴロ寝てないで!勉強しなさい!」
「どうして、勉強しなきゃいけないの?」
「勉強しないといい学校にはいれないだろ!」
「どうしていい学校に入らなきゃいけないの?」
「いい学校に入らなきゃ、いい会社に入れないだろ!」
「どうしていい会社に入らないといけないの?」
「いい会社に入らなきゃ、いい暮らしができないだろう!」
「いい暮しって何さ?」
「・・・・・そうだな・・・・・寝て暮らせるってことだ・・・・・」
「ぼく、もう寝て暮らしてるよ!」

【仕事をしなくてもいい人生は幸せなのか?】
子どもの質問に答えるうちに結局の所「いい暮らし=寝て暮らすこと」
になってしまったという笑い話である。
しかし、
果たして働かないで寝て暮らすことが本当に私たちの求める幸福なのだろうか。
直感として「違うよな」と思う。
少なくとも日本人の労働観や人生観とは距離がある。

三〇歳の時に年末ジャンボ宝くじを買って、
一等・前後賞合わせて十億円が当った人がいるとする。
彼はすぐに仕事を辞め、
それ以降は一切働かずに遊びほうけて暮らし、八十歳で亡くなった。

ほとんどの人は宝くじに当たった幸運をうらやましいと思うだろう。
しかし、はたして彼の人生そのものをうらやましいと思うだろうか。
彼が、一軒家を手に入れ、外車を乗り回し、世界中を旅行して優雅に暮らしたと聞いても、
彼は五十年間を無駄に過ごしたと感じる人の方が多数ではないだろうか。

人は何故働くのか。

すぐに出てくるのは「生活費を稼ぐため」という答え(経済的要素)である。
しかし、それだけではないだろう。
食うには困らない資産を持っているのになおも働き続けている人がいるし
「体が動くうちは何らかの形で働きたい」と考える高齢者も多い。
こういう事例を思い浮かべれば、働く理由は経済的要素だけではないだろう。

次に出てくるのは「仕事は義務だから」という答え(社会的要素)である。
日本国憲法には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第二十七条)と書いてある。
社会が滞りなく運営されていくように社会の成員として役割を果たすこと、
これも働く理由の一つである。

では、この二つだけなのか。
そうではないだろう。
前述の二つ以外の「仕事を通じて得られる事」
 - 自己実現の喜びを感じられる個人的要素 -を以下列挙する。

①悪から逃れること。
「小人閑居して不善を為す」のことわざを思い出そう。
小人物が暇を持て余すと、とかく悪事に走りやすい。
私たちのほとんどは小人物である。
昼間から酒浸りになったり、ギャンブルにのめりこんだりという状況から遠ざかることができる。

②他者と交流できること。
ほとんどの生産活動は他者とかかわらざるを得ない。
同僚や取引先や顧客だけではなく、動植物との交流も含まれる。
職場は厳しさが求められる”戦場”である反面、そこは親交の場でもある。

③自分の力を発揮できること。
人間に限らず動物は自分の能力を存分に発揮したときに喜びを感じる。
逆に、自分の力を発揮できないと、人間は悶々とした状態に陥る。

④成長・進化できること。
いろいろな人と出会い、多くのことを学びつつ、さまざまな業務をこなすうちに、
結果的に、職業人として成長・進化していくことができる。

⑤承認欲求が満たされること。
上司から「よくやった!」「次も頼むぞ!」とほめられたり、
顧客から「ありがとう!」「助かったよ!」と言う感謝の言葉をもらったりしたときに
私たちは働きがいを感じる。
それは、自分の能力を認められ、自分の人格を肯定されたことを意味する。

「お金のため」「義務だから」というように、
自分の外側にある目的のために仕事をするのではなく、
「私が私らしくあるためにその仕事をしている」「私の心がその仕事をすることを欲している」
そうした内発的な働く理由があることを忘れてはならない。


たしかに、
「仕事を通じて得られる」五つの個人的要素は重要と思う。
すごくきれいな表現だ!

この寓話で感じる二つの問題、
一つは、
「いい暮らし=寝て暮らせる」という答えしか出てこない、
子どもをしかる資格が無い情けない父親。
二つ目は、
「経済的要素」もまったく説明できない教育システム。
寓話であり、そういうところの議論のお話ではないので問題でもないが・・・。

でも、
少し寓話の世界をハズして考えてみると、
昔、自分が子どもの頃の教育はまさに、最初の父親と子どもの会話の状態だったように思う。
一生懸命勉強して、
いい学校に入って、いい会社に入って、いい会社に入れば給料もよくて一生楽に暮らせる。
みたいな、はなしを理解できていた子どもが果たしていたんだろうか?

今となれば、
もっと「経済的要素」、つまり、お金のことに関する教育をしてほしかった。
「お金」の話をすると、逆に怒られる?そんな風潮さえあったような気がする。

自分が、子どもの頃とは比較にならないほど「経済的要素」も「社会的要素」も厳しい時代。
これからも、ますますお金の知識が必要。
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座右の寓話「ひばりの引っ越し

春先になってひばりが麦畑に巣を作った。
初夏のある日の事、大勢の村人たちが麦畑にやってきて、
「そろそろ、みんなで麦を刈らなきゃいかんなあ」と話していた。
これを耳にしたひばりの子供が、
「お母さん、麦刈りが始まるから、引っ越しをしようよ」と言った。
しかし、ひばりのお母さんは「まだ、大丈夫よ」と答えて平然としていた。

数日たってから、
三人の村人が麦畑にやってきて「ぼちぼち、麦を刈らなきゃいかんな」
と話していた。
これを耳にしたひばりの子供は、
「お母さんもうダメだよ!麦刈りが始まってしまうよ」と叫んだ。
しかし、ひばりのお母さんは「まだ、大丈夫よ」ととり合わなかった。

さらに数日後、
今度は村人が一人だけやってきて「じゃ、ぼちぼちやるか」とつぶやいた。
そこではじめて、ひばりのお母さんは子供に言った。
「さあ、逃げましょう」

【「自分ひとりでもやる」が現場を動かす】

この寓話は「トヨタの上司」という本に書いてあった。
トヨタ高岡工場で働いていた社員が昔の職場の上司から聞いた「たとえ話」
として紹介されている。

その上司が言いたかったことは、次のとおりである。

工場内の掃除を「みんなでやらなきゃいかん」と声をかけているうちは、
誰一人として動かないものだ。
そういう段階では、まだ現場は本気になっていない。
「自分ひとりでもやる」
そう言ってほうきを持ちだしてくるメンバーが出てきたとき、
現場は本気で掃除をやる気になり始めている。
職場のリーダーはそこをしっかり見極めなければならない。

この話の教訓はこういうことだ。
「みんなでやろうう」という掛け声はあてにならない。
「他の人はともかくとして、自分ひとりでもやる」そういう気持ちが誰かから 出てきたときにこそ、現場は動きはじめる。

これに関連して、
多重チェックは逆にミスを増やしかねないという話。
重大事故につながりかねない仕事では、
ダブルチェックやトリプルチェックがなされるのが普通である。
しかし逆に、
こういう多重チェックみよって安全性が低くなることもある。

一人ではなく二人、
あるいは三人でチェックする事によって責任が軽くなる気がして、
「他の人が確認しているのだからきっと大丈夫だろう。
自分が一生懸命確認する必要はない」と考えるからだ。

そう、まさにこの話は今、職場でも通ずるところがある。

お客様からクレームがあり、
流出対策として、「ダブルチェック」、でも一向に改善されない。
「他の人が確認しているのだからきっと大丈夫だろう」が逆効果になっている事例だ。
一人に責任を持たせることも時には必要!




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座右の寓話「半分の煎餅」

お腹をすかせたある男が、お菓子屋さんで7枚の煎餅を買った。
さっそく男は家に戻って、煎餅を食べ始めた。

一枚食べ終わったが、お腹は膨れない。

二枚目を食べるが、まだお腹は膨れない。

三枚目、四枚目、五枚目、六枚目と男は次々と煎餅を食べた。
それでも、空腹が収まらない。

残った煎餅は一枚だ。
あと一枚しかないので、残った煎餅を二つに割って食べることにした。
すると、今度はお腹が一杯になった。

その男は残った半分の煎餅を手に持ちながら、悔しそうに言った。
「俺はなんて馬鹿なんだ。半分の煎餅でお腹が一杯になるんだったら、
前の六枚は食べなくてもよかった」


【わずかな変化をばかにしてはいけない】

馬鹿みたいな話である。
六枚の煎餅を食べたことを忘れ、半分の煎餅だけで腹が膨れたと
勘違いした男は「日々の積み重ねが大きな成果を生む」ことを判っていない。

「(1.01)と(0.99)の法則」
1.01は1よりわずかに大きい。
0.99は1よりわずかに小さい。
両者の差はたった0.02.
しかしながら、このわずかな差が積み重なると、大きな違いが生まれて来る。

実際にこの二つを365回掛けるとどうなるか。
1.01の365乗は37.78
0.99の365乗は0.026になる。

こんなにも大きな差が生まれる事に誰もが驚くだろう。
言うまでも無く365という数字は一年間を意味する。
日々1%だけ余分に努力を続けた人と、
日々1%だけ手を抜いた人とでは、一年間でここまで差がつく。
人生は小さな選択の積み重ねである。
その選択が、一年後のあなたの人生を決める。

あなたは、
1.01を選ぶ?

それとも0.99を選ぶ?


【努力の大切さを忘れない】

騏驥も一躍に十歩すること能わず。(荀子)
どんなに能力の高い馬でも、一回に十数メートルもジャンプはできない。

人、一たびして之を能くせば、己、之を百たびする。(中庸)
他人が、ある事を一回でできていたら、自分はそれを百回やってみる。

どんな仕事でも、大事な瞬間、大きなチャンスは訪れる。
その時の為に日々の努力を惜しまない。

とは、いっても自分は弱い。
いつも、弱い自分との戦い!!!

玉も琢かざれば器を成さず・・・

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座右の寓話 「北風と太陽」

北風と太陽が彼らの力について言い争っていた。
議論ばかりしていても仕方ないので、勝負をしようと言う話になった。

最初の勝負は、旅人の帽子をとる事だ。

初めに、太陽が旅人を照りつけると、旅人は日差しを避けようと帽子を深くかぶり、
決して脱ごうとはしなかった。

今度は、北風が思いっきり強く、ビューっと吹いた。
すると、旅人の帽子は簡単に吹き飛んでしまった。

次の勝負は、旅人の上着を脱がすこと。

初めに北風がありったけの力で、ビューっと吹きつけた。
しかし旅人は震え上がって、着物をしっかり両手で押さえるばかりだった。

今度は、太陽が旅人を照らした。
すると、旅人は上着を脱いで、気持ち良さそうに伸びをした。

【状況に適した手段を選ぶ】

この話の教訓は、
何事においてもその都度適切な手段を選ぶことが肝要であるという事だ。
旅人の帽子をとるには北風が適していた。
上着を脱がせるには太陽が適していたという事だ。

要するに「臨機応変の大切さ」を説いている。

一般的に、年をとればとるほど素直さは消えていく。
逆に、頑固さは増すばかりである。
「人の意見は四十まで」
(四十歳を過ぎた人に意見をしても効き目がないこと)と言うことわざがあるくらいだ。
臨機応変である為には、頑固であってはならない。

社会で成功している人や組織ほど、自信を持っているという意味で頑固である。
しかし、過去にうまくいったからと言って、これからもずっとうまくいくとは限らない。

成功は、人を頑固にする。
成功の記憶は時に耳栓になる。
まわりの環境が変わってしまっているのに、過去の勝ちパターンにしがみつく事は良くあることだ。
時が変われば、選ぶべき手段が違って当然である
熟慮の上、適切な手段を選ばなければならない。

頑固は、その時点で成長が止まる。
四十と言わず、
五十になっても、
六十歳になっても、
人の話に耳を傾ける素直さが成長につながる。

頑固な、いわゆる「老害」であってはならない。
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座右の寓話「三杯の茶」

石田三成は有る寺の童子
(寺院で仏典の読み方などを習いながら雑役従事する少年)をしていた。

ある日豊臣秀吉は鷹狩りに出かけ、途中、
のどが渇いたのでその時に寺に立ち寄った。

秀吉は「誰かいるか?茶を持って参れ」と望んだ。
三成は、大きな茶わんに七、八分ばかり、ぬるめのお茶を持ってきた。

秀吉はこれを飲んで舌を鳴らした。「うまい、もう一杯」。
三成はまたお茶をたてて持ってくる。

今度は前より少し熱くして、茶碗の半分に足りない寮のお茶である。
秀吉はこれを飲んだ。

少年の機智に感心した秀吉は、試しに「もう一杯」と望んだ。
三成はまたお茶をたてた。
今度は熱く煮立てたお茶を、小さい茶碗に少しだけ入れて出した。

これを飲んだ秀吉は少年の気働きに感心し、
住職に乞い求めて、
小姓(武士や大名の側で雑用や護衛の任に就いた武士)として三成を使う事にした。
才能を発揮した三成は次第にとり立てられて奉行職を授けられた。

【少しの気配りが自分の仕事を生む】

あるとき武術家の甲野善紀ほか七人で連れだってレストランに入った内田は、
メニューに「鶏のから揚げをみつけた」。
「三ピース」で一皿だったので、七人では分けられない。
仕方なく三皿注文する事にした。

すると注文を聞いたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。
「コックに頼んでそうしてもらいます」

彼が料理を運んできたときに甲野は彼にこう訊ねた。
「あなたはこの店でよくお客さんから『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう」
彼はちょっとビックリして「ハイ」と答えた。「月に一度くらいそう言われます」

このエピソードを紹介した後、
人間は「放っておくと賃金以上に働いてしまう」存在だと書いている。
そのウェイターが彼の出来る範囲で、
彼の工夫するささやかなサービスの積み増しをした事を表現している。

ほとんどの仕事は代替え可能な仕事である。
とくにアルバイトなどはそういう面が強い。
しかし、そこに自分の出来る範囲で気配りや機智を加えれば、それは自分の仕事  - 自分だからこそ出来る仕事 - に化ける

以上は、三成に焦点をあてた読み取り方である。
これとは別の読み取り方も可能である。
それは、「三成と言う男を見出した秀吉の逸話」という読み取り方である。

どんな才能も、とくに近代以前の社会であればなおのこと、

よい目利きによって
見いだされない限り市井の中に埋もれてしまう。
秀吉が二杯目の茶を所望した時、
秀吉の心の中には三成を試すという気持ちはなかったであろう。
「もう少し茶が飲みたい」という単純な思いしかなかったに違いない。

しかし、
二杯目の茶が一杯目の茶よりも少し熱く、少なめの量だったことに感心し、
三成を試そうとして三杯目の茶を所望した。

三成の機転に気付く秀吉がいたからこそ、この寓話は成り立つのである。


この寓話から、
「できる人は必ず持っている一流の気くばり力」 という本に流れ。
その中に、
「ちょっとしたことが、圧倒的な差になっていく」と、寓話と同じことが記されている。
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イソップ寓話 アリとセミ

冬の一日、アリは夏の間に溜めこんだ穀物を穴倉から引っ張り出して、
乾かしていた。
腹をすかせたセミが来て、露命をつなぐ為、
自分にも食物を少し恵んでくれ、と頼み込んだ。

「夏の間一体何をしていたのかね」と尋ねると、
「怠けていたわけではない、忙しく歌っておりました」とセミは答える。

アリは笑って、小麦をしまいこみながらこう言った。
「夏に笛を吹いていたのなら、冬には踊るがいい」

【勤勉なアリを選ぶか、人生を楽しむセミを選ぶか】

この話の一般的な教訓は「余裕のあるときに将来に備えよ。
さもないと苦痛や危機にあう」と言う事だ。
アリは計画的かつ勤勉で真面目な存在、
セミは無計画でその場しのぎの遊興にふける愚かな存在と読み取れる。

しかし、
この話から逆の教訓を読み取ると事も可能だ。
アリはひたすら忙しそうに働き、
自分だけが豊かになろうとする自己中心的な存在で、
将来を憂いて今をないがしろにするという悪い例でもある。

反面、セミは、芸術を愛し、活きる事自体を楽しむ存在と言う良い例である。
何が良くて、何が悪いかは、文化や時代状況によって異なってくる。

・「貯蓄は美徳である」と考える文化圏はアリを支持するし、
・「人生は楽しんでなんぼ」と考える文化圏ではセミを支持する。
・「貧しい時代に生きる人は」アリを支持するし、
・「豊かな時代に生きる人は」セミを支持する。

最後に一言、
アリとセミが一つの経済圏を形成していたと考えた場合、
アリは、セミの歌を聴いていた事に対価を支払う必要もある。
アーティストのLIVEと考えたらどうなのか?

へ理屈にも聞こえるが経済とはそういうものではないだろうか?
どちらか一方のみの利益はありえない。

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